† ユダ・トマス
Judah Thomas (?〜A.D.72頃)
ディディモ


 十二使徒。共観福音書では、使徒任命の時にのみ登場する。
 死んだラザロを生き返らせに向かうイエスが「彼のところへ行こう。」と言ったのを受けて、仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか(ヨハ11:16)」と言うほどに忠実であったらしい。また、その言葉から情熱的な若い男として描かれることもあるようだ。
 弟子になる以前については語られていないが、イエスの死後、七人の弟子の前に現れた際、他の弟子と共に漁に出ていること(ヨハ21)から同じく漁師であったか、『トマス行伝』にあるように大工だったのではないかと思われる。

 また、イエスが磔刑を受けた翌々日、イエスは弟子たちが隠れていた家に現れたが、トマスはそこに居合わせなかったため、主が復活したという弟子たちに対し、「手の釘跡とわき腹の傷に指を入れて見なければ信じない」と言った。その八日後にイエスは再び現れ、トマスは復活を信じた。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハ20:19) ここから疑り深いトマスと呼ばれる。

 イエスの死後、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(マタ28:19)」との言葉に従って使徒たちはくじ引きで伝道先を決めたが、インドに割り当てられたトマスはそれを拒否。しかし、現れたイエスによって大工として銀貨20枚でインドの商人に売られてしまう。
 インドで伝道を続けたトマスは、グードナファル王(20〜50頃)から得た資金を人々に配り、二年の後に帰国し、何も出来ていないことを知った王によって投獄される。しかしその頃死んだ王弟ガドが四日目に甦り、王のためにトマスが建てた天上の宮殿を見たと言ったことから、王と王弟はトマスの言葉を信じて洗礼を受けた。
 その後、トマスは南部インドへ向かい、マツダイ王の将軍カリスの妻ミュグドニアを夫との不浄な関係を絶つ禁欲的な信仰に導いた他、王妃や多くの王族や群集を回心させる。マツダイ王とカリスは、トマスに責め苦を与えようとするが上手くいかず、太陽神の偶像に供物を捧げさせようとするが、トマスの言葉によって偶像に入っていた悪霊は像を蝋細工のように溶かしてしまった。トマスは怒った祭司長によって刺し殺され、マツダイ王とカリスはトマスの復讐に燃える群衆を見て逃げ去った。
 その後、マツダイ王は息子の病気をトマスの遺骨によって治そうとするが、遺骨は既に東方に運ばれてしまっていたため、王は墓地の塵で息子を癒し、自らも回心したと云う(トマス行伝)。
 また、東方の三博士の住んでいる土地に行って彼らに洗礼を与えたという伝承や、全身に槍を受けて殉教したという話もある。。

 35年にはアッシリア、52年頃にはインドに到着、72年頃にマドラスで殉教したようである。
  •  ディディモはギリシア語で双子の意。トマス(テオーマー)もアラム語で同じ意味を持つ。一部の写本や外典でユダ・トマスと呼ばれることなどから、本名はユダだったと思われる。イエスの双子の弟だったと云う伝承もあり、彼にのみ秘儀が伝えられたとも云われる。
  •  標章として本、殉教の剣や槍、大工を示す定規や巻尺を持ち、建築や測量に関係する職業の守護聖人とされる。また復活したキリストが描かれる事もある。
  •  祝日は7月3日。
  •  『黄金伝説』では、インドへの派遣はもう少し穏やかで、インドに行くようにと言うイエスの言葉に一旦トマスは断るが、インドの人々を改宗させたら殉教の棕櫚を持って主のもとに来るというイエスの言葉を受けて、インド行きを決め、インド王の家令と共にインドに渡る。
  •  インド南西部マラバルにはトマスによって創設されたとされるトマス派教会があるが、実際はネストリウス派の末裔らしい。
  •  聖遺物の一部は230年頃、シリアの信徒たちが皇帝アレクサンデル(セウェルス 位222〜235)に願ってエデッサに移されたようである(記念日7・3)。その後、最終的にはイタリア中部のオルトナに移された。1952年トマスのインド伝道1900年を記念してボンベイ市に大聖堂が建てられ、聖遺物の一部がここに贈られている。
  •  エデッサの王アブガルス(位13〜50)はイエスに病気の治癒とエデッサへの避難を願う書簡を出し、イエスはタダイを遣わしてそれを行わせると約束したという伝説があり、外典に『アブガルス王とイエスの往復書簡』がある。また、その際イエスは自らの顔を拭った布を贈り、その布に写ったイエスの顔を見た王は病気が治ったと云う。その後タダイに洗礼を受けて、洗礼を受けた最初の王となったとされる。以来、エデッサにはキリスト教徒だけが住み、敵に攻め込まれても洗礼を受けた子供に手紙を読ませると、書状の力とトマスの慈悲により敵は退散するか和睦を結ぶといわれた。