イスカリオテのユダ (Judas Iscariot)
(?〜A.D.30頃)

 キリスト教における裏切りの使徒。十二使徒の名が挙げられる際には、イエスを裏切ったことと共に必ず最後に挙げられる。

 共観福音書(『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』)ではその理由は窺えないが、『ヨハネ』では、ユダはイエス教団の会計を預かっていながらその中身をごまかしており、銀貨30枚でイエスを祭司長に売り渡したとされ、ベタニアで女(マリア)が高価なナルドの香油をイエスに注いで無駄遣いしたことを責めるのも金をごまかしたユダの役割にされている。
 過越の食事(最後の晩餐)の場でイエスは裏切りを企図する者に「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」とまで言う。尚、この時ユダは、イエスに対して「主」ではなく「先生」と呼びかけている。その後、ユダは祭司長や武器を持った多くの群集の案内をして、イエスが祈りを捧げていたゲツセマネに赴き、イエスに接吻することで見分けさせてその捕縛を助けたとされる(『マタイ』26)。
 しかし、イエスがユダヤ総督ピラトに引き渡されることを知って後悔したユダは、報酬として受け取った銀貨を祭司長たちに返そうとするが受け取られず、その銀貨を神殿に投げ込むと、自ら首を吊って死んだ。銀貨は血の代金であるために祭司長たちによって神殿の収入にはされず、「陶器職人の畑」を外国人墓地として購入する資金とされ、その土地は「血の畑」と呼ばれるようになったと云う(『マタイ』27)。また、ユダが得た報酬で買った土地に落ちて体が裂けて死に、それ故にその土地は「血の土地(アケルダマ)」と呼ばれるようになったとも云われる(『使徒』1)。尚、銀30枚とは、牛が奴隷を突いた場合の賠償である奴隷一人の価格(『出エジプト記』21)、あるいは『ゼカリア書』においてゼカリアが主の仕事の報酬として羊飼いから受け取り、鋳物師に投げ与えた額である。
 ユダの死後、空席となった十二使徒の座は、新たにくじで選ばれたマティアという弟子が埋める。
 師であるイエス・キリストを裏切って自殺したキリスト教における悪の代表的存在。キリスト教の転倒として最初にあげられる人物である。キリスト教の代表的悪人。
 また、ルーマニア、ブルガリア、セルビアには、一度咬みついたりキスをしただけで犠牲者の血を吸い取り、その後に30枚の銀貨をあらわすXXXの傷を残す「ユダの子ら」と呼ばれる悪の吸血鬼の伝承がある。


(1) イスカリオテとは、ケリオテの人(イシュ・ケリオテ)とも、(サマリアの)スカル出身、ギリシア語の「シカリオス(暗殺者)」に由来する語とも云われる。比較的信憑性の高いケリオテだとすれば唯一の南方ユダの出身。黒髪黒髭に、裏切りを示す黄色い衣で描かれる。またカインのように赤毛であったという伝承もある。
(2) 銀貨30枚は、『ゼカリア書』との関連やその後に神殿に投げ込んでいることなどからユダヤで使われたシェケル銀貨と考えられ、そうであれば120デナリオン(1デナリオンは、労働者やローマ兵士の一日の賃金)に当たる。給料4か月分と言ったところか。尚、ベタニアのシモンの家の女(『ヨハネ』ではラザロの家のマリア)がイエスに注いだ香油は300デナリオン(労働者の1年分の賃金)であった。
(3) 最後の晩餐の場面では、1人だけ頭上の光輪が無い、テーブルの反対側に座る、など異なった描かれ方をされることが多い。有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画では、左から5番目にいる袋を握った黒髪の男がユダとされる。目立たないが、光輪が無く、顔に光が当てられていない。また、青の衣には他の者には使われたラピス・ラズリの絵具が使われていないという。
(4) 裏切った理由としては、多くの説があり、ゼロテ(熱心党)的思想を持っていたユダはイエスを政治的な王としようとしていたが、宗教的にしか行動しないイエスを見限ったためだとも、イエスとユダの間には密約があり、イエスの予言を実現するためにイエスを売り渡したのだとさえ云われる。また、会計を預かっていたユダが子羊を屠ってもらいに神殿に行った際、大祭司側に見つけられるという失策を犯し、ゲツセマネでイエスに懺悔の接吻をしたのが結果的にイエスを見極めさせてしまったという説もある。
 『ヨハネ』では、ユダが会計を預かり、それをごまかしていたことが語られるが、同時にその裏切りは、イエスが「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人(裏切る人)だ」と言ってパン切れをユダに与え、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言ったことで、ユダの中に入ったサタンによって引き起こされている(『ヨハネ』13)。
 ユダに対するイエスの言葉も、『マタイ』では「友よ、しようとしていることをするがよい」「お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(『マタイ』26)というのに対し、『ルカ』では「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」(『ルカ』22)となっており、イエスがどれだけユダの離反を察していたのか、また逆にユダは裏切ったのか読み取り難い記述となっている。
 近年再発見された『ユダの福音書』によれば、ユダは裏切ったのではなくイエスの指示に従ったのだとされる。

 イエスが死ぬことで人類の罪は贖われ、イエスは救世主となる。共観福音書のイエスは「人の子を裏切るものは不幸だ」と言われるが、預言を完成し、人類を救うために予定された裏切りは、果たして裏切りなのか?