パウロ (Paul)
(?〜A.D.60〜68頃)
使徒。異邦人や王たち、イスラエルの子らに福音を知らせるための器として選ばれ、主に異邦人への使徒として活動した。(使徒9:15)小柄で頭が禿げ、足は曲がっていたが、健康そうで、幾分しかめ面で鼻が高く、慈愛に満ちた姿であり、ある時には天使のような顔を見せることもあったという。(外典『パウロとテクラの行伝』) 小アジア南部キリキア州タルソス出身のローマ市民権を持つユダヤ人。律法学者ガマリエルの下で教えを受けたファリサイ派の熱心な信徒であり、イエスの死後は、イエスの信徒『ナザレ人の分派』を迫害して男女を問わず牢に送り、最初の殉教者ステファノの殺害に賛成していた。(使徒8:1) エルサレムのイエス信者を迫害していたサウロは、ダマスコの信徒をも迫害しようと、エルサレムの大祭司に要求した手紙をダマスコに届けようとするが、その途中で天からの光と「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というイエスの言葉を受けて地面に倒れ、視力を失った。三日間目が見えず、食べも飲みもしなかったが、幻で見た通り、アナニアという弟子が彼に言葉をかけると、サウロの目からうろこのようなものが落ちて癒された。回心したサウロはすぐに洗礼をうけ、ダマスコでイエスの福音を広めるようになった。(使徒9) 数年後、エルサレムに戻って使徒たちに受け入れられたサウロは、バルナバやテモテ、シラスと共に小アジアからギリシアにかけて三度の宣教旅行に出かけ、幾度も投獄されたり最も厳しい三十九回の鞭打ち刑を受けるなど、多くの苦難を乗り越えながら各地の教会で宣教を行った。56年頃、一時帰還したエルサレムで宗教対立からユダヤ人に訴えられ、カイサリアで未決囚として二年を過ごした後、後任の総督フェストゥスを通じて皇帝に上訴したことからローマに護送された。ローマでは番兵を一人つけられて軟禁状態にはあったが、一人で家を借りて住むことを許され、比較的自由に宣教活動を行ったと思われる。(使徒言行録〜書簡類) その後、皇帝ネロ(位54〜68)によるキリスト教徒弾圧の最中、ローマ市民であったパウロはローマ郊外で斬首の刑に処せられて殉教したらしい。ペトロ殉教と同じ日であったとされるが、ペテロの殉教の際には難を逃れ、以前に計画していた通りスペインにまで伝道に出たという伝説もある。 (1) 祝日は6月29日(ペトロと同じ)。また、1月25日は回心を記念する祝日。 (2) 最初の殉教者ステファノ殺害の際は、殺害には参加せず、殺害に参加した者達の上着の番をしていた。(使徒7:58) (3) 異邦人に対して律法や割礼に捕らわれず、ただ信仰によってのみ救われると説いた。各地の信徒に宛てた信仰を助けるための手紙が聖書中に残っており、テサロニケ、コリント、ガラテア、フィリピ、ローマそれぞれへの手紙はパウロ自身の著とされる。 (4) パウロは少なくとも宣教中は独身であり、コリント人への手紙などで独りでいることを勧めていることなどから、神に仕える者としては独身性を重視していたようだ。 (5) 伝道中は天幕作りを生業としていたともされる。 (6) サウロとパウロの二つの名を持つことについては説があり、オリゲネスによればサウロとパウロの二つの名をずっと使っていたとされる。ラバヌスによれば、最初はサウル王にあやかってサウロと名乗っていたが、回心後に「低い者」を意味するパウロと名乗るようになったという。また、ベーダによれば、パウロが改宗させた地方総督セルギオ・パウロから貰ったのだという。だが、ヘブライ名はサウロ、ローマ名はパウロ(パウルス,家名)ということらしい。 (7) キリスト教の福音の世界的な普及を実現した最大の宣教者であり、キリスト教をユダヤ教の一派から世界宗教へと変貌させた最大の功労者といえる。 (8) 斬首の象徴である剣や、書簡類の著者であることを示す書物などを象徴とする。 |