シュテファン大公 (Stefan cel Mare)
(?〜1504.7.2)

 モルドヴァ公シュテファン三世(在位1457〜1504)。ヴラド三世(串刺し公)の母方の伯父ボグダン二世の子で、ヴラドの従弟に当たる。身長は150cm足らずと小柄だったらしいが、歴史家グリゴーレ・ウレケによれば「勤勉にして調和の取れた人物で、仕事をどう進めるかの途を知り、人々が彼を求めるときには必ず登場してきた。戦闘に優れ、苦戦に陥った時も彼の姿をみるだけで部下は逃亡せず、このためあらゆる戦いに勝利を収めた。敗北した際も彼は希望を失わず、勝利者を常に打ち破った。」という。47回の会戦において一度しか敗れたことが無いといわれる。

 1447年にヴラドがモルドヴァに亡命した際に知り合い、ボグダン二世が暗殺されると、共にトランシルヴァニアに亡命している。
 当時のモルドヴァは、ハンガリーやポーランドなどから名目ばかりの公が仕立てられ、内紛が続いていた。シュテファンは中小貴族や自由農民と手を結ぶことで大貴族や特権市民に対抗。中央集権化による強力な国家と軍隊の組織を図った。モルドヴァは東西貿易の要路にあり、関税収入が国庫の重要部分を占めていたが、彼はブラショフ、ビストリッツァなどの貿易商人に特権を与え、また小貴族、手工業者、自由農民を保護して、領主化を図る大貴族の勢力を抑えた。自由な共同体を保持していた農民は、公を支持してその主要な戦力となった。当時、南東ヨーロッパ全域の支配を目指していたオスマン帝国はワラキアの宗主国となり、またハンガリー、ポーランドもモルドヴァを脅かしていたので、彼は随時ハンガリー、ポーランドのほか、ボヘミヤ、ヴェネツィア、ロシアとも同盟関係を結んでこれに対抗した。
 1465年にはモルドヴァに敵対するラドウ三世(美男公)の下でワラキア領となっていたドナウ河口の要衝キリアを確保、その後も数度に渡ってワラキア軍を破った。また、ワラキア公として公族のバサラプ二世(ライオタ)を擁して数度遠征し、ラドウ三世やトランシルヴァニア領主シュテファネス・バートリらが推すライオタの息子バサラプ・ツェペルシュと公位を争わせる。しかし、バサラプ二世が数度に渡ってラドウ三世に敗れたことで彼を見限り、ヴラド三世をハンガリーから解放させるが、彼も即位後間もなく謀殺されてしまう。シュテファンは、少年時代からの友人である彼の死を深く悲しんだと云う。
 1475,76,84年のオスマン軍との戦闘でもしばしばこれを破り、1487年にはオスマン帝国への貢納を認めはしたが、国の自治権は維持した。ルーマニアを代表する偉大な君主の一人である。
 彼が戦勝のたびに建立したプトゥナ、ボロネツなどの教会、修道院はモルドヴァ美術の最高の歴史的遺産となっている。


(1) 恐らくヴラド三世にとってかなり身近であったろう人物。彼を敵と見るか味方と見るかによって、状況は大きく変わるだろう。