シュテファン大公
>> Stefan cel Mare (?〜1504)
 モルドヴァ公シュテファン三世(在位1457〜1504)。ヴラド三世(串刺し公)の母方の伯父ボグダン二世の子で、ヴラドの従弟に当たる。1447年にヴラドがモルドヴァに亡命した際に知り合い、ボグダン二世が暗殺されると、共にトランシルヴァニアに亡命している。
 モルドヴァは東西貿易の要路にあり、関税収入が国庫の重要部分を占めていたが、彼はブラショフ、ビストリッツァなどの貿易商人に特権を与え、また小貴族、手工業者、自由農民を保護して、領主化を図る大貴族の勢力を抑えた。自由な共同体を保持していた農民は、公を支持してその主要な戦力となった。当時、南東ヨーロッパ全域の支配を目指していたオスマン帝国はワラキアの宗主国となり、またハンガリー、ポーランドもモルドヴァを脅かしていたので、彼は随時ハンガリー、ポーランド、ボヘミヤ、ヴェネツィア、ロシアと同盟関係を結んでこれに対抗した。
 1465年にはモルドヴァに敵対するラドウ三世(美男公)の下でワラキア領となっていたドナウ河口の要衝キリアを確保、その後も数度に渡ってワラキア軍を破った。また、ワラキア公として公族のバサラプ二世(ライオタ)を擁して数度遠征し、ラドウ三世やトランシルヴァニア領主シュテファネス・バートリらが推すライオタの息子バサラプ・ツェペルシュと公位を争わせる。しかし、バサラプ二世が数度に渡ってラドウ三世に敗れたことで彼を見限り、ヴラド三世をハンガリーから解放させるが、彼も即位後間もなく謀殺されてしまう。シュテファンは、少年時代からの友人である彼の死を深く悲しんだと云う。
 1475,76,84年のオスマン軍との戦闘でもしばしばこれを破り、晩年にはオスマン帝国への貢納を認めはしたが、国の自治権は維持した。ルーマニアを代表する偉大な君主の一人である。
 彼が戦勝のたびに建立したプトゥナ、ボロネツなどの教会、修道院はモルドヴァ美術の最高の歴史的遺産となっている。




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