ヴラド・ツェペシュ
>> Vlad Tepes (1431頃〜1476)
 ワラキア公ヴラド三世(在位1448,1456〜62,1476)。ワラキア公ヴラド二世(ドラクル)の次男であり、ドラキュラ(ドラクレア・Dracula・Drakulya・Draculea)の名は父ヴラドがドラゴン騎士団員だったことによる呼称ドラクル(Drakul)に子供を意味する「a」を付けたもの。母親は、モルドヴァ公アレクサンドル善良公の娘。ツェペシュはルーマニア語で“串刺し”を意味する渾名。当人はヴラディスラウス・ドラクリヤ(Wladislaus Drakulya)と署名したこともあり、名やドラキュラの綴りの正確なところは良く分からない。
 外見は、ローマ教皇使節の司教ニコラスがブダの宮殿で軟禁中(1462〜1475)のヴラドについてと印象記に残した記述によれば、「背はそんなに高くはないが、頑丈強健で、無慈悲で恐ろしげな表情をしていた。高く筋の通った鼻、膨らんだ鼻孔、大きく見開かれた緑眼と黒々とした眉毛のある細長い顔面、幾分赤みを帯びた肌は、他人に威圧感を与えた。口ひげを残して顔はきれいに剃刀が当てられていた。こめかみの幅が広く、頭全体も大きかった。首は雄牛のように太く、垂れ下がった縮れ毛が広い肩幅を覆っていた」と云う。現在ではオーストリアのアンブラス城に肖像画が残る。また、弟のラドウが美男公と呼ばれてスルタンの寵愛を受けたと云われるように、ヴラドの一族は美男子の家系であったと云われる。

 ヴラドは、1430年あるいは1431年にトランシルヴァニアのシギショアラで生まれた。家の前は魔女裁判の刑場であり、それが幼時の彼の性格に影響を与えたのではないかとも云われる。当時、父ヴラド二世はトルコに従属していたが、1438年のトルコによるトランシルヴァニア侵攻の際に住民を救おうとしたことでトルコのスルタン・ムラト二世の不興を買い、1442年、トランシルヴァニア領主フニャディ・ヤノーシュの攻撃を受けてトルコに亡命した際、二人の息子ヴラドとラドウと共に捕らえられてしまう。父ヴラド二世はトルコに再び忠誠を誓うことで再びワラキア公に即位するが、ヴラドは十二歳からの五年間、エグリゴズに人質として留められ、デウシルメと呼ばれるトルコの英才教育を受けることとなる。この時代、多くのものを学ぶこととなったが、同時に疑り深い性格を養うこととなり、狡猾で反抗的で兇暴だとして恐れられたと云う。
 1447年12月、父ヴラド二世と兄ミルチャがハンガリー摂政フニャディ・ヤノーシュによる攻撃の混乱の中で地主貴族に捕らえられ殺害されてしまったことから、トルコの後押しを受けてワラキア公に即位。しかし、二ヶ月程後にはヤノーシュの支援を受けた前公ヴラディスラヴに公位を追われる。一旦、ムラト二世を頼ってトルコに逃れた後、母方の伯父モルドヴァ公ボグダン二世を頼る。しかし、1451年にボグダン二世が政策に反対する地主貴族によって暗殺され、後の大公である従弟シュテファンと共に父と兄の仇とも言えるトランシルヴァニア領主ヤノーシュを頼って亡命する。ヴラドとシュテファンは、この亡命先で、先に君公に即位した方がもう一人が公位を得ることを助け合おうと誓い合ったと云う。
 トランシルヴァニアでは、父と兄の仇であるヤノーシュの元に滞在し、優れた武将である彼の元で多くのものを学ぶことになる。一方、ワラキア公ヴラディスラヴは、ヤノーシュの力を借りて公位を得たものの、その曖昧な態度から周囲の信頼を失っていた。1455年のトルコがルーマニアから撤退し、翌年、ヤノーシュが黒死病で病死したのを機に、ヴラドはワラキア領に進攻、ワラキア公として復位する。
 地主貴族の権力闘争の続いていたワラキアで、彼は父と兄を裏切った貴族たちを皆殺しにするなど地主貴族を弾圧するとともに、政治制度改革によって君主の権力を強化。組織的な常設正規軍と精強な親衛隊を組織して軍事改革も行った。更に、経済的な侵略を行っていたドイツ系商人(サシ人)を排除することで国内の経済産業を育成、戦乱によって疲弊した国力の回復に努めた。
 トルコに対しては、1457,58年には貢納金を払ったが、その後は貢納金が引き上げられたのを機に拒否。1461〜1462年に書けてはドナウ河岸のトルコ軍守備隊を電撃的に壊滅させ、1462年にはメフメト二世率いる十数万の兵力を持つトルコ軍の侵攻に対して数万のトルコ兵を串刺しにして戦意を削ぎ、奇襲と退却のゲリラ戦術を使うことで、僅か一万の兵力でこれを撃退する。しかし、圧倒的不利な戦いと焦土作戦によってヴラドの勢力は低下。それに対して、トルコ軍に随軍してきた弟ラドウは、完全支配領ではなく貴族の領有権を残した臣従国とする意向を伝えて地主貴族を糾合、ワラキアの南半分を領有してトルコと和平条約を結んだ。
 ヴラドは、ラドウ率いる国内の貴族とトルコ軍に追われてトランシルヴァニアに亡命。ハンガリー王マチャーシュ一世(コルヴィヌス)とトルコ攻撃の同意を取りつけるが、ヴラドがメフメト二世に宛てたという密書からトルコ側に寝返ったという嫌疑が掛けられ、事実関係も曖昧なままマチャーシュ一世によって逮捕されてしまう。(密書は筆跡、文体が似ているものの、内容から偽書であるとされている)また、この頃から、マチャーシュ一世が十字軍を放棄し、ヴラドを逮捕したことを正当化するためにヴラドの残虐行為を宣伝する文書がマチャーシュ一世によって流布されたらしい。
 ハンガリ―に送られたヴラドは、逮捕当初の一年はブダの宮廷に監禁された後、その後も裁判が行われることもなく、ドナウ河岸のヴィシェグラード砦で12年間に渡って囚われることとなるが、この頃のことは殆ど分かっていない。逮捕前後にヴラドはカトリックに改宗、逮捕直前の同盟に基づいてマチャーシュ一世の妹マリアと結婚している。ソロモンの塔と呼ばれる監獄に幽閉され、手なずけた看守に小動物を入れさせては串刺しにしていたとも言われるが、捕らわれの身ながらも面会は許されており、トルコ使節との面会に同席したり、妻マリアとの間にもうけたミフネヤ(悪党公)と他に二人の子供を育てていることなどから、捕囚中も罪人というよりは陪臣・賓客として遇されていたらしい。また、編み物を習っていたという話もある。
 その間、ワラキアはヴラドの弟・美男公ラドウ三世が治め、1473年頃からはモルドヴァの推すバサラプ二世(ライオタ・バサラプ)とトルコの推すラドウ三世が公位を取り合う形になっていた。
 1475年、モルドヴァに侵攻していたトルコ軍の脅威に対抗する旗頭としてヴラドは解放され、ヴラドとトランシルヴァニアのシュテファヌス・バートリ率いる援軍の存在を知ったトルコ軍が撤退したのを機に、1476年、シュテファン大公とマチャーシュ一世の支援によって三度ワラキア公として即位する。しかし、そのわずか一ヶ月後、モルドヴァ軍、トランシルヴァニア軍が撤退した不安定な情勢の中、トルコ軍あるいは地主貴族の裏切りによって横死した。その死には不明な点も多く、トルコ軍を撃退して一人で丘に登っていた所を襲撃されたとも、公室評議会の前後、側近によって馬上で斬りつけられたとも云われている。また、その場所は父ヴラド二世が暗殺されたブクレシュティ周辺の修道院付近であったとも云われる。
 ヴラドの首は首実検のために塩漬けにされてスルタンの元に送られてトプカプ宮殿の前に晒され、遺体はワラキアの三大修道院の一つであるスナゴヴの湖上の小島修道院に埋葬されたとされる。祭壇下に埋葬されていたが、十八世紀末、当時のワラキア大主教フィラレトによって掘り出され、入り口近くで人々に踏みつけられる位置に埋葬し直されたとも伝えられる。事実、入り口近くには高貴な貴族らしき者の遺体が埋葬されていたが、それがヴラド三世であるのかは不明である。
 彼の死の直後の1477年1月、再度バサラプ二世がワラキア公に即位。同年末には息子のバサラプ・ツェペルシュが後を継いでいる。




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